2009年05月13日

茨城 水戸 偕楽園好文亭

【好文亭料金所】徳川斉昭公により、偕楽園内に休憩所として建てられたもので、素剛優雅な外観は水戸武士の風格がただよう建築。偕楽園はこちら
【好文亭の門】好文亭の名は梅の異名「好文木」に由来し、斉昭公は、ここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰安会を催した。
【見取り図】斉昭公自らが設計したもので、木造2層3階建ての柿葺(こけらぶき)好文亭本体と木造平屋建ての茅葺きの奥御殿から成り、太鼓橋廊下で結ばれている。
【好文亭】藩主の間、東西の塗縁の間、対古軒、楽寿楼、茶室何陋庵、待合などから成り、各所に創意工夫と洒脱さを感じさせる。3階の楽寿楼からの眺望は見事。
【奥御殿】観覧コースは、好文亭の玄関からすぐに隣接する「奥御殿」へ向かいます。奥御殿は10室からなり、広縁と庭に周囲を囲まれている。手前に見えるのが、厨(くりや:食事の準備の場所)として使用された菊の間。
【菊の間】鮮やかな襖の絵に目を見張る。ほとんどの部屋にこのような草木の絵が描いてある。一見豪華だが、派手ではなく、渋い魅力を感じさせる。隣の桃の間とともに床は総板敷きで、厨(くりや)として使用された。
【梅の間】竹の間、梅の間、清の間の3室の1棟は明治に増築されたもの。屋根は柿葺(こけらぶき)で、斉昭公夫人が梅の間に住んでいたことから、亭中最貴の室とされている。大正天皇、昭和天皇が皇太子時代にそれぞれ宿泊、休憩された。
【松の間】梅の間廊下から松の間、紅葉の間を望む。紅葉の間は次の間で、松の間は奥対面所で藩主夫人や高貴な方々の座所。紅葉の間との間には入側(いりかわ:座敷と縁側との間の廊下)をもって隔ててある。
【桜の間】藩主夫人お付の御殿女中の詰所・休憩室のつつじの間、桜の間、萩の間がこの棟にある。
【太鼓橋廊下】太鼓型の橋廊下は好文亭と奥御殿を結んでいる。廊下左側に斉昭公が創案した篠で作った格子窓がある。 窓は,外からは窓であることが判らないように作られている。
【東塗縁広間】18畳の塗縁の間は、斉昭公が80歳以上の家臣,90歳以上の庶民の老人を時々招き、慰安したり、家臣と共に作歌、作詩などして楽しんだところ。障子を開けば、周りの景色、見晴らしもいい。障子の白と、総板縁の黒と、庭園の緑が見事な調和をみせる。
【西塗縁広間】東塗縁広間の2倍の広さの総板縁で、床はスリ漆塗り、天井は杉板のアジロ張り。北側と西側2枚の杉戸には,漢詩を作るのに必要な8,000字が書いてある。漢詩を作るときの辞書代わりにしたという。
【藩主の間】東塗縁と西塗縁の間にある藩主の執務室。東塗縁で敬老会などがあるときには、障子を開けて老人たちと謁見したり、西塗縁で集会の人々と直接話したという。
【対古軒】西塗縁の北側に接している四畳半の一室。好文亭に招かれた人が休んだり,茶席に出る前に,静座して心気を整えるなどに使われた部屋。
【対古軒の板額】掲げてある丸い刻板は,斉昭公の歌「世を捨てて 山に入る人 山にても なお憂きときは ここに来てまし」を彫ったもの。茶室何陋庵の入口になっている。
【何陋庵(かろうあん)】簡素清朴な草庵風の茶室。床柱には島津斉彬公から贈られた鹿児島県屋久島のツツジの古木が用いられている。何陋庵の名は論語にある言葉をとったもの。
【階段】1階から2階、3階へあがる急な階段。2階には納戸風の武者控室や、配膳室に階下の料理室で作ったお膳や酒肴を運搬するリフトがある。
【楽寿楼】3階を特に楽寿楼(らくじゅろう)と呼んでいる。部屋は3室あり,南に面した8畳が正室で斉昭公が出庵された。西側の丸窓は富士見窓で、陣太鼓の余材を用いたもの。
【楽寿楼から千波湖を望む】東南西方の勾欄に寄って4辺を眺めると、遠近山河の景がここに集まる趣だ。
【楽寿楼から奥御殿を望む】好文亭と奥御殿を結んでいる太鼓橋廊下の柿葺(こけらぶき)の屋根が見える。
【待合】茶室、何陋庵の露地の西側に待合がある。ここは、茶席に招かれた客が席の準備ができるまで、控え待つところである。
【待合内部】クヌギの丸太造りで、三方は壁、内に腰掛を設け、壁に四角とまるの茶説,茶対,巧詐不如拙誠の板額三つを塗りこめてある。いづれも斉昭公の茶技に対する教訓のことば。
posted by 日本の秘湯 at 11:05 | 口コミ情報(0) | 小旅行関東 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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