2011年09月21日

山梨 甲州大和町 天童山景徳院

【天童山景徳院】山梨県甲州市(旧大和村田野)にある曹洞宗寺院。山号は天童山、本尊は釈迦如来。地名から田野寺とも呼ばれ、武田家終焉の地として有名。徳川家康が勝頼の死を弔うため菩提寺として景徳院を建立した。
【案内図】甲州市は、塩山市と勝沼町・大和村が合併して2005年に発足。大和町は武田家終焉の地として知られ、天目山の由来となった天目山栖雲寺、徳川家康が武田勝頼を弔うために建立した景徳院や、周辺には竜門峡、日川渓谷などの渓谷がある。
【市営景徳院駐車場】県道景徳院前にある市営駐車場。境内にも山門横に寺の駐車場があり、空いてれば停めれる。
【境内案内図】境内には勝頼公、北条夫人、勝頼の嫡男信勝公が自害した生害石があり、甲将殿の裏には勝頼公をはじめ将士の墓がある。
【総門】総門前の川辺には勝頼の首を洗ったという「首洗い池」がある。
【参道】参道は左側には民家が連なり、右側の斜面にはたくさんのあじさい花が咲いている。
【山門への石段】参道を右に曲がると見上げる程の長い石段が続く。勝頼は嫡男信勝と共に景徳院で自害し、平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡した。
【山門】景徳院は七堂迦藍の立派な寺であったが2度の大火で焼失し、唯一、創建当時から残っている400年の時を経た見事な山門。
【境内(左)】山門から正面の「武田菱」の紋のかかる本堂をみる。清浄な空気に包まれた境内。
【境内(右)】山門から鐘楼方向をみる。山門の内側は石碑や歌碑が建つ。
【本堂】1582年(天正10)3月11日に自害した勝頼の法名を寺名とした景徳院。辞世は「おぼろなる 月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの 西の山の端」。
【本堂内部】本堂の内部には、勝頼らが末期の水を飲み交わした武田菱水瓶や勝頼、信勝、北条夫人、家臣たちの位牌が安置されている。
【庫裡】本堂や庫裏は、1978(昭和53)に再建されたそうだ。
【鐘楼】サルスベリの淡桃とムクゲの白い花に映える鐘楼が美しい。
【旗竪の松】武田家の日の丸の御旗をこの松に立てかけ、武田家代々の家督相承の印とされてきた楯無の鎧を信勝に着せ元服・鎧着の式を行ったという。
【武田慕情歌碑】作詩いではく、作曲遠藤実、唄大木伸夫の「武田慕情」の歌碑。
【岩舟地蔵】本堂裏手にある岩舟地蔵。中に小さな岩舟地蔵菩薩座像が祀られている。
【庭園】岩舟地蔵のさらに奥にある庭園。秋には紅葉が見事だそうだ。
【境内駐車場】境内駐車場に行くには、総門前の道を上がっていくと、左に境内に入る細い道があるのでそこを左手前にU字型に曲る。
【辞世の句碑】甲将殿前の広場の片隅に立つ北条夫人の辞世の句碑「黒髪の みだれたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒」。
【甲将殿】武田勝頼、北条夫人、嫡男信勝の像や、武田氏ゆかりの遺品などが保存されている。甲将殿の裏には勝頼公主従の墓がある。
【勝頼公主従の墓】中央が勝頼公(37歳)、右北条夫人(19歳)、左が信勝(16歳)の墓が並び、将兵や侍女合わせて50名の墓がある。
【中央基壇の経石】2006年(平成18)史跡「武田勝頼の墓」保存修復中に、勝頼の戒名などを記した大量の経石が発見され、1779年(安永8)に没後200年遠忌が行われたことが判った。
【戒名文字が記された経石】勝頼、北条夫人、信勝の戒名が回向文とともに記されている。経石とは経典の文章の1字または複数の文字を書き写した石。
【勝頼・夫人生害石】甲将殿の前の広場にはこの場所で3人が自害したと伝えられる平らな大きい石が3つある。右が勝頼、左が北条夫人の生害石。
【信勝生害石】「生害石」とは自刃の場所として選んだ石をいう。信勝辞世の句「あだに見よ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの 春の夜の夢」。
【没頭地蔵】生害石から総門方向に細い道を下る所に、没頭地蔵という首の無い地蔵が祀られている。
【没頭地蔵内部】3人の首のない遺骸を葬った場所とされている。
posted by 日本の秘湯 at 09:06 | 口コミ情報(0) | 小旅行甲信越 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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